昭和の完食指導

 昭和の時代。
 昭和レトロといった言葉でノスタルジックな世界として語られることも多くなったが,その時代を生きた人間としてはマイナス部分が色々と思い浮かびすぎて複雑な気持ちになる。

 1970年代の昭和真っ只中だった小学生時代。
 小学生の頃に良い思い出がないかと言えば,家族の思い出などは懐かしく楽しいものもある。しかし,総じて学校は最悪だった。
 小学校とは私にとってトラウマの場所であり,卒業の日はひたすら嬉しかった。その後二度と小学校という組織と関わりたくないと強く願ったため,子供が欲しいなどという気持ちは私の人生で一度も起こらなかった。


国立歴史民俗博物館にて
国立歴史民俗博物館にて

 小学生時代の嫌な思い出には限りがないが,低学年の頃の最悪な記憶は給食だ。

 学校や担任の先生によって指導は異なっていたが,当時の社会は未だ戦争の頃の食べ物がなかった時代の記憶を色濃く残していたためか,給食は完食するのが基本だった。

 給食に供されるのはコッペパンと瓶牛乳におかず一品。
 パンとおかずはアルマイトの給食用食器に盛り付けられ,それをアルマイトのお盆に乗せて各自机の上に置いて食べていた。

給食を完食できないと?

 給食時間内に食べ終わらなければ,昼休みの間もそのまま椅子に座って食べ続けなけらばならない。
 午後の授業や掃除の時間になっても食べ終わらなければ,廊下に出され,廊下に座って食べ続けなければならない。
 放課後まで食べられずに廊下に座っていると,先生がやってきて棒で頭を思い切り叩き,お皿を給食室へ持っていって帰って良いと言うのだった。

 給食時間内に食べられないような子は,廊下に出されようと,放課後まで残されようと,棒で叩かれようと,食べられるわけないのに。

苦手な理由だってきちんとあった

 私は肉が食べられなかった。
 品質の良くない肉が供されていたこともあってか,噛み切ることができず喉に引っかかるからだった。今でも肉は喉に引っかけやすいし,錠剤なんかも喉に引っかけやすい。喉が細いのか飲み込むのが下手なのかは分からないが,これは私の特性で,本人が好んでそうなっているわけではないし,治しようもない。

 だが給食に肉はつきもので,おかずがサラダかみつ豆,スパゲティの日以外はほぼ必ず入っていた。
 おかずがサラダだけとかみつ豆というのは今思えば「それどうなの?」という献立だし,スパゲティがおかずっていうのも栄養的に不思議だが,当時の給食はそうだった。そして肉の塊が入っていないそういう日は月に2回くらいあり,私にとって安堵の日だった。

 それ以外の肉の塊が入っている日,私は最初から食べることを諦めていた。
 肉以外のものはきちんと食べるのだが,肉だけは喉に引っかかるので死活問題。食べられないので午後の授業に出られないことが最初から確定していた。

午後の授業は受けられなかった

 小学校の低学年の頃,だから私が午後の授業に出られるのは月に2回か3回だけだった。
 私は勉強もできたし授業に出なくても特に困らなかったが,私と同じく給食を食べられず毎日一緒に廊下に出されていたあとの二人の子はあまり勉強ができる方ではなかった。苦労していたのではないだろうか。
 毎日一緒にアルマイトのお皿を持って廊下に座ったO君とTちゃんのことは今でも時々思い出す。

 大人になってその話を母にしたところ,「何でお母さんに言わなかったの!」と驚かれた。
 けれど当時の社会,当時の学校では,先生は絶対的な存在だったのだ。自分が不当な扱いを受けているなどということを,7歳とか8歳の私は全く思い付かなかったのだった。

 今の社会では度を超した完食指導は問題にされているようで,本当に良かったと思う。
 給食は本当に辛かった。

給食は黙って食べるものだった

 完食問題とは関係ないが,給食のことで最近驚いたことを一つ。

 コロナ禍で「黙食」が指導され「可愛そう」などという意見を聞いて驚いた。
 なぜなら私が通っていた小学校では「喋ると唾が飛ぶので食事の時は黙って食べましょう」と指導されていたのだった。
 「今時の小学校では給食の時にお喋りするのが普通なのか!」と驚いたのだ。

 半世紀も経てば常識は随分と変わってゆくようだ。


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