練炭火鉢

 祖母は1903年生まれ。明治の人だった。
 幼い頃に私がよく遊びにいった彼女の家は空襲で焼かれずに残った昭和初期に建った家だった。

 土間になった台所,石造りの風呂場。トイレは勿論くみ取り式で,手を洗う水道はついていない。トイレの前に手洗い用の桶がぶら下がっていた。
 扉は全て障子の引き戸。玄関の格子戸には上半分に飾りガラスがはめ込まれていた。

 隙間だらけの昔の木造家屋は如何にも寒そうなイメージだが,実は障子というものは断熱効果が高く,意外と暖かい。硝子は約90%の熱を通過させてしまうが,障子は40~50%程度なのだ。
 ついでに言うと,障子は調湿効果と通気性もある。このため湿気がこもりにくく黴の防止にも役に立つ。畳の部屋には最適だ。
 障子紙は,夏は暑く湿度が高く冬は寒く地方によっては雪が降り続く日本に適した素材だったのだと改めて思う。


 そんな祖母の家の冬の風景に欠かせなかったのは練炭火鉢だった。いわゆる近代的なストーブというものはなく,暖を取るのは練炭火鉢のみだった。


 障子を閉め切ったほの暗い和室の真ん中に置かれた練炭火鉢の上には必ず鉄瓶が置かれ,しゅんしゅんと湯気を出していた。
 そういえば,祖母は鉄瓶のことを「お湯瓶」と呼んでいた。方言なのだろうか,それとも祖母の世代の人たちはやかんや鉄瓶を普通にそう呼んでいたのだろうか。

 冬の楽しみの一つは練炭火鉢の上で焼くお餅。
 鉄瓶を除けて網を置き,その上にお餅を並べる。
 練炭火鉢の縁にお皿やお醤油,海苔,きな粉砂糖などの皿を並べ,火鉢を囲む。
 熱々の餅を火鉢の縁の皿に取って,目の前で膨れていく次の餅を見ながら食べるのだ。

 そんなことを言われても練炭火鉢を見たことがないであろう現代の人には想像が難しいだろう。当時の写真でも残っていれば良かったのだがそんなものはない。
 下は上野の台東区立下町風俗資料館で撮影したものだが,これは練炭火鉢ではなく単なる火鉢。練炭火鉢はもっと大きいし複雑な構造をしている。


台東区立下町風俗資料館にて
台東区立下町風俗資料館にて

 下は佐倉市にある国立歴史民俗博物館で撮影したもの。
 こちらは練炭火鉢だが,練炭火鉢の中の部分だけだ。この部分全体を上の青い火鉢のような材質の焼き物でできた容器に入れて使う。
 練炭火鉢の容器には下の写真の中身がそっくり入り,下の部分には空気穴の窓が付いていて火加減を調節できるし,縁の部分がちょっとしたカウンター机のように使えるのだ。

国立歴史民俗博物館にて
国立歴史民俗博物館にて


練炭

 そもそも最近の若い人たちは練炭というものを知らないだろうと思う。

 右の絵のように穴があいた真っ黒な円柱形の形をしたものが練炭だ。
 朝から火を付けると夕方まで火が保つが,燃やすわけだから部屋は度々の換気が必要だ。ただ障子で囲われた部屋はそもそも通気性が良いので現代の住宅でストーブを使うほどの換気は必要なかった気がする。

 火を付けるときは野外で新聞紙や乾燥させた蜜柑の皮などを練炭の上に乗せて団扇で扇ぎ練炭に火を移していた。
 上手に練炭に火を付けられるようになった時は大人になった気がしたものだ。


 祖母が愛用していた深緑色の練炭火鉢は,祖母の家が高度経済成長期の家に改築された後,いつの間にか姿を消した。
 そして練炭火鉢というものも,多くの家の日常から消えていった。

 消え去った当時の文化をたまにこうして思い出し,火鉢の下の空気窓を開けて赤赤と燃える練炭を覗いた子供の頃を思い出す。


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